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BOOKWARE column vol.1 [対読篇]世阿弥のスーパーシステムに学ぶ

本に肖りながらあれやこれやを考える、編集工学研究所のBOOKWAREコラム。
[対読篇(ツイドクヘン)]では、イッツイの2冊を往来します。

 

vol.1 対読本:

 『風姿花伝・三道』世阿弥(角川ソフィア文庫)

 『生命のからくり』中屋敷均(講談社現代新書)

 

Text by 安藤昭子(編集工学研究所)
Photo by 小森康仁(編集工学研究所)

 


 

 「人との間に距離を取る」という新しい習慣に、なんとなくつきまとう「つじつまの合わなさ」の正体はなんだろう、とこのところよく思う。オンライン・ツールが一気に広まって、どこのだれともすぐに繋がれる環境は、見方によってはこれまで以上に人と人の距離を縮めている。

 でもいや待てよ、と思う。物理的に「疎」であることと、心が「密」でいたいことを、わたしたちはどう一緒に扱おうとしているのだろう。カラダはソーシャルディスタンスを保ちながら、アタマとココロの接触を過密にしていく。その三位一体の疎密具合を含んだ「新しい生活様式」が、いまださっぱり見えていないのだ。

 

 会社でも学校でも、空間をともにすることで暗黙的に共有してきた「答えを導き出すまでのプロセス」が、どうやら一緒くたに「疎」に向かっている。アタマとココロの密度はプロセスの交換に集積されるはずなのに、そこが混じり合う方法やツールを、わたしたちはまだ持っていない。
 でもいや待てよ、とこれまた思う。人間はずっと、手紙でも贈り物でも文学や芸能でも、ずれた時空間を平気でまたいで生活の節々に心の過密をつくってきた。リモートであることはとっくの昔からデフォルトで、要はアタマとココロの過密具合に向かうなんらかの道筋を、改めて発見する必要があるようだ。

 

「正解のないお題」のコーチング

 「イシス編集学校」の第45期[守]基本コースが、4月20日に開講した。この在宅期間に少し腰を据えてスキルアップに勤しみたいという人や、リモート勤務になった社員に職種を超えて身になる学びの場を提供したいという企業など、さまざまな入門動機を背景に217名の学衆が集まり、21の「教室」に別れて、連日賑やかに「編集稽古」を繰り広げている。

 

 「お題」「回答」「指南」がやりとりされる教室のコミュニケーションはすべてテキストながら、教室ごとに醸し出される個性がまったく違っていくのが、毎期のことながらおもしろい。
 みなで同じ「38番の編集の型」を次々と学んでいくのだけれど、「ひとつの正解」を目指さない編集稽古は、必然的に一人ひとりの脳内体験が十人十色の様相になる。そうして思い思いの思索と回答が相互入り乱れて飛び交う中で、この組合せでしかありえないと思える一期一会の場が出来上がっていく。
 この生き物のような「教室」の一切を取り仕切るのが、「師範代」と呼ばれる編集コーチたちだ。

 

 全国の600人を超える師範代は、みな同様に学衆として入門し、早い人では1年後には「師範代」として「教室」を牽引する。まさか自分がと思っていた人も、ふとしたきっかけに背中を押され、あれよあれよと言う間に師範代になっていったりする。そして師範代を経験した人たちが口を揃えて言うことには、「なんといっても師範代がいちばん学んでいる」そうなのだ。
 学んだ人が導く人になり、導きながらまた教えられる。この学びの循環システムのコア・エンジンとして機能し続けているのが、師範代養成機関の「イシス花伝所」である。

 

去る5月16日、この「イシス花伝所(33期)」の「入伝式」がオンラインで開催された。松岡正剛校長の「型」をめぐる講義では、イシス編集学校がなぜ「型」を重視するのか、編集工学の奥義が紐解かれた。[photo by 後藤由加里]

 

 [守]基本コースと[破]応用コースまで修了すると、「イシス花伝所」への入伝資格が得られる。昨日までの学び手を明日の師範代に一気に変容させるプログラムであるだけに、その密度と速度と深さは、なかなかどうして「本気」が求められる。
 「正解のない編集稽古」を導くための技能や心構えとなれば、通り一遍のマニュアル学習ではさっぱり太刀打ちができない。何を伝えるべきか、何を託せばいいか。この養成プログラムの開発にあたって、校長である松岡正剛は、日本の芸能の真髄を打ち立てた世阿弥に多くを学んだという。
 イシス編集学校の節々に世阿弥の影響が見て取れるが、ちょっと奥の間でイシス全体の生態系を支えるこの「花伝所」にこそ、日本の稽古哲学が存分に込められている。言わずもがな「イシス花伝所」の名前の由来は、世阿弥の『花伝書』だ。

 

めづらしきが花なり

 世阿弥が大成した「能」には、650年の歴史がある。世阿弥は稀代のイノベーターでありアーキテクトでありエディターだった。時の将軍・足利義満の寵愛を受けるなど能役者として人気をさらったのみならず、自ら50作以上の能作品を書き、「余情(よせい)」や「幽玄」や「秘すれば花」といった後の日本文化を支えるキーコンセプトを次々と生み出し、父の観阿弥から口伝で受け継いた芸の奥義を演劇論として生涯をかけて編集した。シェイクスピアに先んじること200年、14世紀の乱世の最中だった。

 

 『風姿花伝』の中で世阿弥は、書名にもある通りことさらに「花」というものを重視している。「花のある人」や「言わぬが花」などと言うが、この「花」とは何だろうか。

 

“そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆえに、もてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。”
(『風姿花伝』世阿弥「別紙口伝」より)

 

 花は、四季折々に機を得て咲くからこそ人々は愛でるのであり、能も同じくその時々に新鮮なものであることが面白さなのだ。「花」と「面白さ」と「めづらしさ」は同じことだ、と言う。そして、散らない花などなく、散るからこそめづらしさを感じる。ひとところに留まらないということを、能の花と心得よ、と説いている。真新しく変わり続けることを、芸の真髄としたのだ。

 

 世阿弥はまた、後に「複式夢幻能」と呼ばれる驚くべき物語フォーマットを開発した。このフォーマットにのせることで、ダイナミックに時空を旅する幻想的な物語が次々と生み出される。能の魅力の基盤が構造的に維持され、作品のバリエーションや演ずる者の「花」の追及によってたゆまぬ変化と革新が起こり続ける。古(いにしえ)を継ぎながら、常に新しい可能性をひらく仕組みが、能の命を継いできたのだろう。

 

生命を前に運ぶ「究極の矛盾」

 免疫学者の多田富雄さんは、自分で自分を作り出し条件に応じて自分の運命を変えながら働いてゆくような免疫の仕組みを「スーパーシステム」と呼んだ。世阿弥がつくりあげたものはどこか、わたしたちの体の中にある免疫系「スーパーシステム」を思わせる。
 多田富雄さんは能への造詣が大変深く、ご自身で能作品も書かれていた(『脳の中の能舞台』や『能の見える風景』など、能に関する著作も遺されている)。能と生命、そのスーパーシステムの奥ではどうやら何かが繋がっている。

 

 生命は、「自らの情報を保存するシステム」と「自らを改変していくシステム」を、あわせて内包している。自分自身を忠実にコピーする仕組みを持ちながら、同時に「変異」を産み出す仕組みを作り上げているのだ。情報の保持と複製を可能にするRNAやDNAといった厳密な暗号システムを持ちながら、時折起こる「偶発的なエラー」を増幅させることで多様性を作り出してきた。秩序と偶発性が混じった状態(カオスの縁)の中で創造と破壊が繰り返されることによって、多様性や複雑性を適度に生み出し、「創発」を繰り返して環境に適応しながら命を継いできたのだ。

 

 中屋敷均さんの『生命のからくり』では、この「今を維持しようとする力」と「今を変えようとする力」、生命の「究極の矛盾」にひたすら照準をあわせて、生命にまつわるキートピックを次々に拾い上げながら、そのからくりを解こうとしている。

 

 世阿弥が生み出したシステムも、この「究極の矛盾」を戦略的に取り入れている。
 『風姿花伝』の「問答条々」に「陰陽の和する所」という示唆がある。

 

“秘義に曰く、そもそも、一切は、陰陽の和する所の境を、成就とは知るべし。(中略)陽気の自分に陰気を生ずる事、陰陽和する心なり。これ、能のよく出来る成就のはじめなり。”
(『風姿花伝』世阿弥「問答条々」より)

 

 昼や晴れた日には観客の気分が盛り上がっているので少々抑えめに、夜や曇りの日は逆に気分や沈みがちなので、派手めに演じなさい。陰の中に陽を、陽の中に陰を入れることで、能の全体の出来上がりを調節すべし、という教えなのだが、これを個人の技能に任せずに、システムとして取り込んだところに、世阿弥の仕事のすごさがある。

 

 能楽師の安田登さんは『能 650年続いた仕掛けとは』の中で、音の力でこの陰陽のバランスを解決する楽器の構造を解説している。
 能の音楽を担当する囃子方には、笛(能管)の他に小鼓(こつづみ)と大鼓(おおつづみ)があるが、この二種類の太鼓が同時に最適な状態となる天気や湿度はないのだそうだ。大鼓は演奏前に火鉢でカンカンに乾燥させるほどに湿気を嫌い、小鼓は舞台上でも唾をつけて濡らすほど湿気を要する。大鼓は晴れて乾燥した日によく響き、小鼓は曇って湿度の高い日によく鳴る構造だ。
 大鼓はいわゆる「頭打ち」(頭の拍をとる)で、この音がよく聞こえると自ずと囃子の進行はゆっくりになる。これに対して小鼓はジャズやロックにあるような「裏打ち」なので、このリズムがよく聞こえると全体のスピードが早くなる。つまり、晴れていると曲が抑え気味になり、曇っているとアップテンポになっていく。こんな魔法のような「陰陽和する所」を、楽器の構造の「矛盾」を使って内包しているのだ。恐るべきスーパーシステムである。

 

「初心忘るべからず」の本当の威力

 安田さんはこの本の中で、「初心」というコンセプトが持つシステム戦略についても、興味深い読み解きをしている。
 「初心忘るべからず」と言えば、「始めた頃の気持ちを忘れずに」といった意味に使われることが多いが、本来の意味はそうではないという。
 初心の「初」という字は、衣偏と刀から成っていて、まっさらな生地(衣)にはじめてハサミ(刀)を入れることを意味する。「初心忘るべからず」とは、古い自分を断ち切って新たな自分に生まれ変わることを忘れるな、という意味なのだ。
 そして能の稽古プロセスには、この「初心」に飛び込ませるための仕組みが内蔵されている。稽古を積み実践力を身に着けていく過程で「免状」をもらい、ある時点で自分の力量を超えるような演目を任される。これを「披き(ひらき)」という。

 

 自らにハサミを入れるというのは、誰にとっても怖いことだ。この越境を、世阿弥は自己責任にしなかった。「免状」や「披き」といった機会が埋め込まれた環境の中で、自ずと「初心」に向き合い、時に痛みを伴いながらも、古い自分を超えていくことになる。こうした集団の「初心」への構えが、「能」の世界が直面する環境変化や危機やリスクをも、総体として引き受けていく耐性を作っていったというのだ。ほとほと、ため息が出る。

 

 松岡正剛が世阿弥に倣ったということ、イシス編集学校の仕組みと重ねて点検していく程に、本気の弟子入りだったことがよくわかる。
 たとえば「師範代」という役割は、なにかと矛盾を抱えながら環境の中で自らを刷新していくようになっている。「専任の師範代」という人はひとりもおらず、みななにかしらの職業や社会的立場を持ちながら、師範代業に相当の熱量を注ぐことになる。「副業」でも「片手間」でもないこの切実な環境は、時に苦い葛藤を引き起こしながらも、だからこその閃光のような発見の喜びも連れてくる。なにより、師範代や学衆のバックグラウンドにある多様性が場の複雑性を担保して、そこかしこの「カオスの縁」でそれぞれの想像を超えた学びが創発しているのだ。「師範代がいちばん学んでいる」というのは、まっさきにその兆しを察知できる所に居合わせられるからだろう。

 

 「イシス花伝所」を修了した面々は、師範代の「免状」をもらって教室という舞台で「披き」を経験する。古い自分に何度もハサミを入れながら、学衆の回答に指南をし、完全リモート環境の「教室」という生きた場を立ち上げ、それらによってまた自らの初心に出会っていく。この師範代たちの本気の「初心」が、イシス編集学校の「めづらしきが花なり」を維持しつづけている。
 

 「イシス編集学校」は、2020年6月1日で創立20周年を迎える。能の650年、生命の38億年には遠く及ばないながら、一つひとつの「お題」や「披き」に差し掛かった師範代の「初心」に、そのすべての時空が折りたたまれていることも、また本当なのだ。

 

 アタマとココロの過密具合は、カラダのソーシャルディスタンスとは無縁のところでいかようにも加速されうるということ、世阿弥の肩越しに見えてくる。問題は、その生命体のような有機的なスーパーシステムを、そこかしこにどうやって出現させられるのか、だ。「イシス花伝所」の本気のリバースエンジニアリングが急務かもしれない。

 


◎BOOKWARE column 対読本

 『風姿花伝・三道』世阿弥(角川ソフィア文庫)

 『生命のからくり』中屋敷均(講談社現代新書)

 

◎参考書籍

 『能 650年続いた仕掛けとは』安田登(新潮新書)

 『世阿弥 風姿花伝』(NHK「100分de名著」ブックス)

 『art japanesque 10 茶と花と能―サロンの風流と芸能』(講談社)

 『別冊太陽 能』(平凡社)

 

◎参照千夜千冊

 118夜『風姿花伝(花伝書)』世阿弥元清

 1508夜『世阿弥の稽古哲学』西平直

 1306夜『世阿弥を読む』観世寿夫

 701夜『細胞のコミュニケーション』木下清一郎

 1060夜『生命を捉えなおす』清水博

 1741夜『免疫ネットワークの時代 複雑系で読む現代』西山賢一