【著者】松岡正剛
【発行年月日】
1984年初版発行、
1995年新装増補版第1刷、
1998年第3刷
【装丁】芦澤泰偉
【印刷所】萩原印刷
【製本所】寿製本所
【発行所】春秋社
【担当編集者】佐藤清靖
【定価】2000円
【ISBNコード】
4-393-13613-6
【版型】四六版、上製本、354ページ、全1色
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| 1995年発行の新装増補版 |
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| 『即身成仏義』の「成仏」という言葉を、空海は“仏に成る”という意味では考えていないんですね。「いわく身とは我身・仏身・衆生身、これを身と名づく」「(我身・仏身・衆生身は)不同にして同なり、不異にして異なり」。仏も我が身も、すべての衆生、宇宙の万象はすべて同じものであるというのが、「身」についての考えです。その身体を大日如来の三密と同化すればよい、とも言っています。こうした『即身成仏義』の論の要を句にしたのが、有名な2頌(じゅ)8句からなる「即身成仏頌」です。 |
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とりわけ私が注目したのは「重重帝網を即身と名づく」という頌の一句ですが、これは十重二十重と互いに鏡映しあうホロニックなネットワークそのものが「即身」なのだ、というものすごいネットワーク論です。「即身」は空海の全思想を象徴する速力に富む概念です。何重にもネットワークを作ろうとするほど自分の身は高速になり、存在が深秘に達していく。
これは華厳の頂点にあるインドラ・ネットワークのイメージに極めて近いものです。一定の間隔でびっしりと世界を埋め尽くす鏡球(宝珠)には、十方四周のあらゆる光景が映りこみ、一個の鏡球には他のすべての鏡球が包映され、またその一個の姿は他のどの鏡球の表面にも認められる。きりのない映りこみ、ふくみあいが多重に交叉するパール・ネットワークを自分に重ねていくにしたがって、自分が全体に、宇宙に同化していく。そういったイメージですね。
「即身」がこうした帝網の世界である、ということは、もはや華厳や密教の区分を離れた、全身体思想の頂点に立つイメージであるとも言えると思います。そうした思想について、空海は説明することもなく「重重帝網を即身と名づく」の頌に、ラディカルに表現しているということだったわけですね。 |
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私は、空海には本来の意味での急進主義(ラディカリズム)が潜んでいるように思います。急進の意志、「ラディカル・ウィル」は普段は十全に折りたたまれているけれども、ある時に突如としてバネの作用ももどかしいほどに、一挙に全身をかけめぐる。しかも体内に留まらず、地球上のありとあらゆる送電所から送り出されて一挙に世界をかけめぐる電気のように、その充実は四周四方八達にみなぎってしまう。
“一気呵成”ともいうべきこのような即身の身体哲学は、ユージェヌ・ミンコフスキーやグレゴリー・ベイトソンの「精神の自然」としての身体論に同列ではありながら、その速力の充実において、修行の日々に実感した空海の宗教的体験という裏付けにかなうものではなく、それはかつて人間が想像した最大のネットワーク、インドラ・ネットワークをこそかけめぐるのがふさわしかった。「即身」のイメージとはそういうものだろうと思います。 |
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さて一方で、空海はマントラ論・文字論・書道論・呼吸論・風気論・リズム論というものを書きます。それが『声字実相義』と『吽字義』です。
自分が一呼吸入れるたびに、インドラ・ネットワークを通り宇宙の呼吸と共振する、リゾナント(共鳴的)な状態になるということを前提にして、いよいよ1つの文字、1つの書の点画・筆勢・筆致・形態、どんな書にもすべてが参集し殺到するのだという呼吸と言語の関係について展開していきます。 |
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「内外の風気(ふうき)わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」から本題が始まる『声字実相義』は、『即身成仏義』の2頌8句の「即身成仏頌」と同様に、やはり論のすべてはこの有名な偈(げ)に集約されています。
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五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり |
ただひたすらに宇宙の音響が響き渡り、それがいつとはなく山川草木に共振してついに人の声となり、また五体をくだいて言葉となりながら再び時空の文字に還ってゆくという、主語のない、述語的な光景に徹した空海思想の全風景とも言える名作です。これについては私もこれまでに何度となく触れています。
空海は「声」(しょう)には「文」(もん)がある、と言います。風気が身体を通して声になる。宇宙の呼吸が声になる。その「声」にある「文」が意味を持つ。文というある文様的な動向があって、それが意味や文字を作っていく。先に意味や文字があるのではない。
だから空海の書というのは、最初は「文」なんですね。全体は文である。まさに文化の文、文明の文、アヤの文ということなんです。
さらに空海は一度書や文字に出した「文」を、もう一度引き取っていく。ここが空海らしいところで、それを「内声(ないしょう)の文字」と呼びました。今度は身体の中にその文が入っていく。一度書き出した文を、もう一度引き取って内声化させる。響かせる。
これが後に、空海が「いろは歌」を作ったのではないかという伝説にまでいくわけですが、実際にはいろは歌の文字数と空海の時代は合わないので、空海自身が「色は匂へど」を作ったわけではないけれども、おそらく100%、いろは歌を作ったのは真言密教僧でしょうね。
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| 風気による響きと声の関係は不即不離である。その声がおこってすだいたとき、そこに文字がおこる。その字は名をまねき、名は体をまねく。これが実相である…。『声字実相義』に書かれた“言語創出の風景”は、全宇宙には、文字や音声の秘密、言語やその意味の秘密、そしてあらゆる身体にまつわる秘密の三密が超越的に交流し、作用して応じあっている姿があるのだということです。その作用がすばらしい速力でわれわれに豊饒なイメージを与えてくれているのだということ。そしてそれは、身体そのものが無数無尽のレベルで照応しあうインドラ・ネットワークさながらの世界観をもつということ。そうした世界観を自身にそのままにあてはめるとき、即身の可能性がひらき、身体は身体であって身体を越え、身体におけるいっさいの記号性はとりはらわれる、という「即身成仏」へと呼応していきます。 |
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では空海とは一体何だったのだろう? ということをAとBの対話形式で要約したのが、私が『空海の夢』に挿入した最後の見晴台、第23章「マントラ・アート」です。
これは私が本書を書き終えて数年を経てだんだん膨らませていったことになるのですが、「仮名」というものが当時生まれていたこととなぜ空海がこんなことができたのかということは関係があるのではないか、ということについても触れている。万葉仮名というものは一体何か。あれは声字なのか。真名と仮名の問題、すなわち空海のインド・中国・日本と持ちかえってきた言語・文字・呼吸論というものは、「仮名」というものに秘密を嗅ぎ取ることによって発展したのではないか。空海の言う「秘密」(密するということ)にはマスキングしたと同時に、そこにしか何もないということを「指示」しようとしている拘束の行為が成立しているのではないか。あるいはまた『吽字義』の「吽」の一字は4相に分けたのではなく4相を入れたのだ、そう考えないと包摂的な言語思想としての空海は見えない。さらにはまた、分割された要素が言語や文字にあるというチョムスキー的あるいはピアジェ的な発想から離れて空海を考える必要があるのではないかということなどを、統合的にこの架空の対話の中に吸収しています。 |
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ということで、いよいよ第25章「ビルシャナの秘密」、第26章「華厳から密教に出る」と続く『空海の夢』のハイライトに入ります。
問題は、華厳の教主のビルシャナ(ヴァイロチャーナ)に総編集がかかり、大(マハー)ヴァイロチャーナとして同じ教主・同じイコンが、密教の教主の大日如来に再昇華してしまった、ということです。
『空海の夢』の私の最後の挑戦は、なぜ華厳の上にさらに密教、大日如来を作ったのか。方法は? 狙いは? 理由は何だったのか、ということだったわけです。 |
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photo by 川本聖哉 |
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『空海の夢』最終回、
[第30談]は10月30日に掲載を予定しています。 |
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